うちの家族の話 兄編

2021年11月06日 09:28

私には4つ年上の兄がおります。
今はグアテマラ在住で、グアテマラ人の嫁さんと中1の息子と、うちの両親と暮らしております。

兄は今でこそグアテマラでホテルを経営したり、一級建築士だったりするわけですが
子供の頃は妹の私が言うのもアレですが、本当に出来の悪い子でした。

私たち家族は私が中1の頃まで山口県岩国市の小瀬というど田舎に住んでいました。
見渡す限り山しかない、遊ぶところはもっぱら山、夏は川、またはスクラップ置き場
商店はかろうじて一つだけあるようなど田舎でした。

私が小学2年の時、兄は6年生だったわけですが、兄は学校では全く目立たない存在で
勉強も学年で最下位で、体ももやしみたいで運動音痴で、イジメにもあっていました。
妹ながらにずいぶん情けない思いをしたものです。
「お前の兄ちゃんバカなんだってなー!」「お前の兄ちゃん運動神経鈍いよなー!」
そんなことを日々言われ、ああ、お兄ちゃんがもっとカッコよかったら良かったのに、なんて思っていたものです。

そんな兄も中学に進み、私も学校で兄のことでイジられることもなくなりました。

あれは兄が中学3年生の時の話、夏休みの前くらいだったと記憶していますが
いよいよ進学先を決めなければならない、受験に本気で備えなければならない時期でした。
普段口をきかない兄が突然家族に表明をしたのです

「俺、自衛隊に入る、だから高校には行かない」

ええええええええええええええーーーーーー!!!!!

家族一同叫びましたよね。
だってもやしみたいな体で、運動音痴で、体力ゼロで
いやいやいやいや、無理やん。死ぬやん、絶対。

兄はどうも勉強が心底嫌だったらしく、中学入ってもずっと成績は悪いままでした。
もうお前には行ける高校はない、と担任に言われたらしく、その結果兄は自衛隊に入ろうと考えたようなのです。

えええ、これどうするの??やばくない??と思っていたら母はなんと

「わかった、じゃお母さんが連絡とってあげるから、一度自衛隊に見学にいってらっしゃい」

そう言い放ったのです。
私は内心、マジかよ、、無理に決まってんじゃん、、と思ってましたが、、

そして母がどうやって何のコネを使ってそうできたのかは不明ですが
兄は広島の陸上自衛隊の幹部の人に一人で会いに行きました。
私の心配をよそに母はいつも通り過ごして、1日も終わろうという頃

ようやく兄が帰ってきて今度はこう言い放ったのです

「俺、防衛大学に行く!!」

ええええええええええええええええええええええええええええええええ!!!!!!!

ちょ!ちょ!待って待って。
中卒で自衛隊からいきなり防衛大学ってカースト制度ならシュードラ(隷属民)からいきなりバラモン(司祭)になるようなもんじゃん。
そんなわけあるかい。アホなの?高校も行けないかもしれない成績なのに??

目を白黒させる私をよそに母は静かに言いましたよ

「わかった、そのために必要なものはなんでも言いなさい、塾でも家庭教師でも参考書でも」




そこからの兄はまるで人が変わったかのように一日中机に向かっていました。
小学校の問題集からやり直し、夜もほとんど寝ることなく、夏休みもお正月もずっと勉強していました。

そして受験の日、あれだけ勉強したけれど、如何せんスタートがだいぶマイナスだったので、合格できる高校はそれほどたくさんあるわけではない。
その中で兄はとある工業高校を受験し、無事に合格しました。

そこからの兄の快進撃たるや物凄かった
まず一番最初のテストでいきなり学年2位の成績を取った
その次のテストも、またその次も学年2位をキープし続けた。

そして2年生の頃だったか、ついに兄が学年1位になった。

「一回でいいから、一位になってみたかったんよ」
兄は静かにそう言った。
そして
「でももういいかな、一位は、2位でもいい。順位より大切なことわかったし」
と私に言った。

その時の兄の清々しい顔は、本当にかっこ良かった。

兄はその後、鹿児島の工業大学へ進み、建築を学び、広島に戻って建築事務所に就職し
若くして一級建築士資格を獲得した。

あの弱々しく、自分に自信のなかった兄がこうなるとは。
私は嬉しかった、心底嬉しかった。

全てが上手い具合に進んでいると思っていた頃、兄はまたもや突然おかしなことを言い出した
「俺、海外青年協力隊に行ってくるわ」

ええええええええええええええええええええええ、なぜ!!!!!!

で、兄はさっさと会社を辞め、協力隊の合宿へ出向き、グアテマラへインフラ整備の指導者としての派遣が決定した。

知らないうちにスペイン語もペラペラになっていた。

え、もしかして兄ちゃんって頭いいの??
私はもはやパニックであった。

兄は単身グアテマラへ飛び、任期の二年間、グアテマラのインフラ整備に尽力した。
その証拠にグアテマラのあちこちの石碑に兄の名前が彫られている。
スペイン語で「日本人の建築士、村岡一臣、ありがとう」と。

私はグアテマラでその石碑を見た時、涙を流さずにいられなかった。
兄ちゃんすごいよ、すごいよ兄ちゃん。
自慢の兄ちゃんだよ、マジであんた凄いよ。

その後兄はグアテマラの日本大使館へ就職、現地の人と密接な関係を築いてきたことと、ネイティブ並みのスペイン語を買われてのことだった。
数年大使館で勤務し、パティと出会い結婚、パナハッチェルという日本でいうなら軽井沢のようなところにホテルを建設し、息子が生まれ、現在に至ります。

コロナが流行する直前の秋に、私はグアテマラへ行ったのですが
その時やっと兄にあの話を聞けました。

「兄ちゃん、なんであの時、防衛大学行くって言い出したん?」

兄は笑いながら言いました

「あの時自衛隊を案内して、色々説明してくれた幹部の人に言われたんよ
自衛隊に入って何がしたいのか、私みたいになりたいのか、偉くなりたいのか
だったら、勉強しなさい。そこから逃げるような人間は、ここに入っても何も成し遂げられない
本当にやりたいことがないからって、ここを逃げ場とするような人間はここには必要ない
悔しかったら、勉強して、防衛大学にでも行くんだな、、
って言われて、めっちゃ悔しかったわ
全部見透かされてて、俺は世の中舐めてたなぁと思ったんよ」


私は思ったものです
兄も凄いが、母も凄い。
こうなると狙っていたのかどうかはわからないが
母の判断は正しかったわけだ。


色々ありましたが、私は兄の妹で本当に良かったと、思っています。
そして母のことも、尊敬しています。
あ、もちろん父のことも笑

EARSY






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